□月 ●日  No2250 説得力なし(朝倉談)


 
 幻想郷で厄介なのはなんといっても幻想郷も変化という概念には耐えられないということである。
たとえば機械の類は10を要した労力を1にすることが可能である。
天狗たちはこれまで新聞を版画で作っていた。多くの天狗たちが人間たちを利用して版画を作らせていた。
やがて活版印刷の類が天狗たちにも利用されてたちまち活版印刷による新聞が量産されるようになった。
では版画職人はどうなったのかというと、変化に対応できたもの出来なかったものによって運命は大きく変わったと言える。


 機械が全ての仕事を置き換える時代は来るのかと言えばNOだろう。それは月面人が証明している。
なんとかなるのは生物の欲望というのは加速度的に上がるためであり、より高みにより大規模にとなるのが常だ。
その辺で資源的破綻を予見して欲望を制限に走ったのが月面人というわけである。こちらはこちらで欲望の拡大により起こる
より大きなクライシスに対してはもろくなるという欠点があるが、リスクの値はほぼ同じというのが月面人の主張である。


 話を戻す。隙間妖怪は幻想郷はありとあらゆるものを受け入れると言っていた。だがそれは不可能だ。
ありとあらゆるものを受け入れるのには限界と閾値がある。最初から悪意をもって接する者を受け入れるのは
多くの住民を犠牲にする。ゆえに幻想郷にはインフレーションという概念がある。
彼らが存在していい世界をひとまず与えるというもので一種のVR(仮想現実)のような代物と思っていただけるとよい。
もちろんこれを繰り返すと、現実の数は無限大となり維持コストが無限大に広がるので、あるところで引き締めを
おこなうことになる。それを可能にしているのが「縁起」の存在だ。
これによって引き締めを行うことでひとまずのインフレーションが終結すると言ってよい。


 インフレーションで増えた空間というのは概ねすぐに崩壊する。どこかに無理があるからだ。
故にコストは思った以上に掛からない。
それでも幻想郷は変化を続ける。デスマシン妹君が500歳を超えたと言うようにだ。
 幻想の世界といっても万能ではない。だが、そこは幻想としてそこにあるのである。


 いや、むしろ幻想だったらいいなと思いながら今日も中有の道に立つ。