魂魄にしろ冴月にしろ、幻想郷の外にいる妖怪たちは銃を使う者が少なくない。
これまでの信義を捨てて、新しい武器を取り入れることは自分の生き方を否定するようなものである。
朝倉も魔法を使わせれば化け物じみた能力を行使できるのに科学の力も利用している。
そこには相当な葛藤があったことは間違いないと思っていた。
そこで魂魄に、自分の生き方を曲げることはできるのかと訪ねてみた。
あっさりと「できない」と言われてしまった。
そんなことは聖人君子でも難しいと言うのである。
朝倉にしろ魂魄にしろ、信義替えをしていると言うわけではないらしい。
朝倉だって魔法を使うことはあるし、魂魄だって接近戦では剣を使う。
つまり、新たに別のものを使い始めたというのが正しいらしい。
人間にしろ妖怪にしろ、一度すり込まれたものを完全にリセットできるわけがないのだ。
魂魄に言わせれば、自分を変えるという考え方は正しくないという。
変えるのではなく「今までの自分を生かしつつ新たに作る」というのが正しいらしい。
明羅女史は武術に長けているが、力の流れを察知する能力を利用して介護までこなす。
その時の明羅女史は今までのノウハウを捨てているわけではない。
銃が便利で効果的だと分かったら、それを取り入れてしまえばよい。
何も剣の道を捨てるわけではない。 結果総体の姿が変われば、それは「変化」として
捉えることができるわけだ。 八百万のカミが謂われの上書きができるように
我々もまた自分を上書きができるというのである。
ただ、そこに気づいて「始動」できるかどうかはその人物または妖怪の精神力に拠ると言う。
「壊すのではないことに気づけば気が楽になる」というのが魂魄の主張だった。
魂魄が銃を使うのも、冴月が狙撃銃を利用するのも結局は月兎が銃を使うためらしい。
銃は獣を容易に殺すことができる。 妖怪たちを幻想郷に隔離する一因となったのもまた
銃だったと聞いたことがある。
だが今や妖怪は銃を行使することができるようになった。
それでも、スペルカードも幻想の世界も変化しつつも生き残っている。
妖怪も人間も変化することはできるというわけだ。