霧雨魔理沙は努力家として知られる。人知れず魔法の修行をして妖怪退治に生かす。
そして努力した素振りを見せない。これがよいことだと私自身思っていた。
朝倉に魔法の修行をしている霧雨のご息女の話をしたら、ボスに指示を仰げと言われた。
どうやら彼女のやっている行動には問題があるらしい。
ボスにご息女の修行振りを話したら、それは確かに問題だと言われた。
今いち意味が分からなかったが朝倉の指摘で意味が分かった。
努力に成果物がないのが問題だというのである。
成果物といってもモノができたとか弾幕ができたという意味ではない。
モノが出来てかつ成果物として評価されて初めてできたということができるわけだ。
朝倉に言わせればこうだ。
努力とは自己満足の世界であり、努力から結果に結びつくためには、第三者の視点が必要だという。
朝倉もかつては自分の研究結果をエレン女史に見せたりして問題を洗い出していたそうだ。
もう一つ問題となるのは、 努力とは自己満足であるが故にどこまで努力すれば効果が出るのかも
はっきりしないし、間違った方向へ努力したら補正する手段がないのだという。
努力の方向を間違えればいつまでも正しい結果は生み出さないし、却って本人を不幸にする結果になる。
霧雨のご息女はこの第三者の指摘が足りなかったわけだ。
あとで霧雨のご息女に品物を届ける際、さりげなくその話をしたら、
旧友が会いに来て、魔術文法の間違いを指摘して帰って行ったと話していた。
誰のことかは何となく察しがつく。
努力は必ずしも成功に結びつかないが、成功者はすべからず努力しているという言葉がある。
実はここには重要な要素が欠けている。 それは第三者の視点であり出会いであるという。
幻想郷のメカニズムも出会いを故意に起こさせる仕組みを採用している。
幻想入りの仕組みは一定の状態で安定しているはずの幻想郷に風を吹き込むものだ。
そこで起こった出会いこそ重要であるというのが隙間妖怪の考える幻想郷の基礎理論である。
努力していたとしても評価する人がいなければ結局何もなし得ないことと同じと言うわけだ。
自分の殻に引きこもって評価して貰えないと思っているのは間違いだと言うことも出来る。
むしろ自分のやっていることを他人に見せて評価を得ることが重要だ。
そしてそれには社交性が必要となる。 幻想郷において社交システムと機能しているのは
もちろん宴会だ。
さて肝心のボスだが、行動を起こした後様子がおかしい。
机の上にはトレーニングジム入会の書類が載っている。
そしてうわごとのように痩せなきゃと呻いていた。
朝倉が「どうやら霧雨のご息女に太ったと指摘されたらしい」と教えてくれた。
やはり第三者の指摘というものは大切だと分かった今日一日であった。