□月 ★日  No570  大衆居酒屋「八岐大蛇」


朝倉が帰ってきた。 少しだけ声が大きくなった気がするほかはいつもどおりである。
研修中はお酒が飲めなかった(本当はお酒を飲むこともできるのだが、暗記項目を頭に詰め込むので
それどころではなかった)らしく、終わったらみんなで打ち上げをしようということになった。


私が、声を出したり暗記したりする意味があるのですかと尋ねたら、なんと実は声に出すことも暗記することも
あまり重要ではないらしい。 そこに隠されている精神力を養う訓練だったそうだ。
普通、大きな声を出すというのは気恥ずかしさが前に出てなかなか難しい。
私もやれと言われたらそうできるものではない。
こうした状況の中で自分が「やるぞ」とスイッチを入れる瞬間がある。 
そのスイッチを入れる原動力が「精神力」だという。
幻想郷ではしばしば精神力が力となって顕在化する。 だからこそ、自分にスイッチを入れる精神力を
養うチャンスが必要となってくる。 なるほど、研修とは単なるロジックを学ぶところではないんだと感心した。


夜、浅間の紹介でピッツァが美味いという大衆居酒屋「八岐大蛇」に案内される。
浅間の顔を見た板前さんの顔色がみるみる青くなっていた。
なんでも浅間が酔った勢いで店内で暴れて板前さんが怪我したらしい。
出入り禁止にならなかったのが奇跡的である。
よくオーソドックスなデザインセンスの居酒屋。 浅間が暴れたせいだろう壁の一部に補修跡が生々しく残っていた。
一緒に来た岡崎と北白河が出されたヒヨコ型のおしぼりに可愛い可愛いと騒いでいる。
マヨコーンピザを注文しつつ飲み会が始まった。


朝倉はこの店を知っているらしい。 
朝倉が小声で教えてくれたが、先日うちの会社に治療費の請求を出した板前さんが彼だったそうである。
もともと自衛軍に所属していた彼がなぜか一念発起して板前の道を歩み始めた。
その動機がどうも生き物を斬りたいからだという。
板前になったのも魚を斬ることができるからだと言われている。


それを盗み聞きしていた浅間、「戦争に行きたければ傭兵になればいいじゃない」と能天気なことを言い出した。
それを聞いた板前さん。 ぴくりと反応している。
板前さん料理を直接運んできた。 緊張が走る瞬間。 
板前さんは元軍人だけに筋肉隆々で朝倉が涎を出しそうな塩梅である。


すると板前さんはちょっとした小話をしてくれた。
そもそも生き物が斬りたいのではなく、生き物の命を奪いながらもそれを受け止める精神力に憧れていたこと。
そのことを教えてくれた恩師がいるらしい。 
その人物は迷っていた自分の背中を叩ぎ、今の職場に至るきっかけを作ってくれたそうだ。
相当の高齢で、技は盗むものだというのを口癖にしていたらしい。


板前さんはかつての職を離れる決心もまた「精神力」だったことに気付いたという。
そして今の仕事を死ぬまでやり遂げる決心を固めたらしい。
その後彼には警備保障会社やらのヘッドハントがあったが断ってきたという。
朝倉が「人間頭で思っていても行動まで行くだけの精神力がなければ何もできない」とあからさまに
研修の受け売りみたいなことを言っていた。 板前さんはうんうんと頷いていた。


あとで浅間が今度は周囲の空気に気を配ると言ってくれたので今回のところは一件落着である。
肝心のピザはめちゃくちゃ美味かった。 飲み会抜きでまた行きたいところだ。